たまたま、運良く。
ここのところ、主人の調子がすこぶる良い。
それは、本人の体感的なもの、外部から客観的に見たもの、そして医師の見立て、全てにおいてだ。
恵まれていることと思う。主人に選択された治療が、主人の身体に「たまたま」「運良く」ピッタリあっていたということだ。
この「たまたま」「運良く」に関しては、前回少し書いた。
これがずっと続くとは思えない。そんなに甘くないのが進行がんである。そんなことはわかっているのだが、とりあえず現時点のこの驚異的な彼の生命力を喜びたいと思う。
前回、私の持病である関節リウマチの話もした。
そこで、関節リウマチが寛解状態であることも書いた。
それは「たまたま」「運良く」薬が良く効いたからとも書いた。
それに間違いはない。しかし、こうなると、私の担当医の腕がさぞ良いのでは。となる。
そして、同じ病気を持つ方や、身近にいる方は「そのお医者さんを紹介して!」となる。
私は快く紹介する。それにためらいはない。
しかし必ずしも万人に名医である約束はできない。そのことも告げたうえで、紹介する。
私の担当医の薬の匙かげんは絶妙である。
しかしそれは、担当医が開業するずっと前の話だ。
この春、担当医は開業をした。その前は元々勤務していた大学病院を退職し、様々な個人病院で診察を続けながら、他の大学病院にも勤務を続けていた。私がこの医師から薬の判断、決定を受けたのは、元々勤務していた大学病院時代のことであり、かれこれ8年ほど前のことである。その後はその時に決定した薬を少しずつ減薬しており、3年前から経過観察が続いている。
人は変わらないようで、変わる。
私の担当医も常に流れている時のなかで、少しずつだが大きく変化している。
彼はこの8年の間に勤務先を転々としたこと以外にも、治療の対象を変えていた。テレビやラジオにもよく出るようになった。
もちろん元々診ていた関節リウマチは専門であることに変わりないが、最近は線維筋痛症という難病の名医にもなっている。専門とする病気の数が増えると言うことは、患者の数も増えるということだ。病院でも待ち時間も長くなり、そして診察時間も短くなっていく。
いや、真実はそんなに変化していない。私に関しては。診察時間も短くなってはいないし、親身になってくれている。
でも、それが全員にそうであるかとなると、ちょっと違うようで、病気を通して知り合った私より10歳ほど年上の彼女には、たいそう冷たいんだそうだ。彼女は「私の治療が上手くいかないから、匙投げているんじゃないかしら。」と言う。その言葉を真に受けていいのかどうかもわからない。少なくとも彼女はそう感じているという事実だけだ。
そういう言葉は、澱のように私の頭の中に深く沈んで積み重なっていく。
でも私の目の前にいる担当医は、そんなことは一切感じさせない。
そのギャップが「万人に名医であるとは言えない」という但し書きを付けさせる理由だ。
主人の大腸がん治療においても、名医が必ずしも良いとは限らないと感じることがあった。
主人の外来治療の担当医は女性の若い医師だ。
それは、入院中に主人が自分で決めた。
本当はその病院で一番のベテランを外来治療の担当に勧められていた。主人の手術を担当した若い男性医師は外来を持たないからだ。
主人はしばらく考えていたが、若い男性医師と一緒に手術をし、入院中の治療も複数担当してくれていた若い女性医師にお願いしたいと告げた。
その選択が正しいかどうかは、まだはっきりとはわからない。
しかし、最初に勧められたベテラン医師は今月末で退職となり病院を去るそうで、現時点で言えることは、「ベテラン」という言葉に釣られてその医師を選択しなくて良かったということだ。
それも「たまたま」であり「運良く」である。
私たちは結局、自分で選択しているようで、それでも自分ではどうにもならないものに動かされていると思ってしまうのである。