ひねもすのたり

日記のような、つぶやきのような、そんなブログです。夫が末期がん患者です。

なんでもいきなりやってくる

告知もステージ変更も体調が悪化するのも、

全ていきなりやってくることを、夫のがんで学びました。

 

私は母を脳腫瘍で亡くしています。

かれこれ9年ほど前のことです。

記憶は薄れながらも、鮮明に覚えている出来事もありますが、

とにかくその時も全ては突然でした。

 

私は18歳で九州から東京に上京し、既に40代半ばとなりました。

そのまま結婚もしたので、親とは18歳からずっと離れて暮らしています。

母の看病も父任せでした。その頃はこどもたちがまだ小さかった(小学生でした)こともあり、簡単に帰省できない事情もありました。

なので、正直看病が「他人事」だったんだと、今振り返ると思います。

父には大変な思いをさせてしまいましたし、母は私と話をすることが大好きだったので、親不孝をしたと後悔しています。

 

父は今も元気に九州で弟と一緒に暮らしています。

一緒に暮らしていた母方の祖母も10年前に老人ホームで老衰で亡くなっているので、

身近な人の看病体験がないままでした。

 

病気がいきなりやってくることは知識的にはわかっていました。

お腹の激痛で夫を夜間救急へ運んだとき、うっすらと「これは大変なことになるかもしれない」とは思っていました。

腸閉塞になっていて大腸が小指ほどの隙間しか空いていない箇所があると聞かされたときに、もしかしたらがんかもしれないとも思いました。

大腸がんでしたと医師から告知されたときも、やっぱりそうだったのかという感じでした。

 

ただ、その最初に医師に大腸がんを告知されたとき、ステージⅢbという話だったんです。転移がなかったということが「闘えばなんとかなる」という安堵と勇気を与えてくれていました。

ですが、その約3日後にステージⅣへの変更が告げられたのですが、その時はあまりの突然の告知に、血の気が引くってこういうことだと言うくらいに手足が冷たくなって意識が遠のくのがわかりました。夫もこの時初めて「まだ死にたくない」と泣きました。

ステージが変更になることがあるなんて、想像もしていなかったのです。

 

後々、ステージ変更はあることだということを、がん患者さんのブログで知りました。

ひょっとしたら手術前にステージ変更があるかもしれない・・・なんて、あまりそこまで覚悟を決められる人はいないと思いますが、そんなこともあるんだよということを頭の片隅に置いておいてもらえたら、きっとショックの受け方がほんの少しだけ変わってくるんじゃないかと思います。

余計なお世話でしょうけど。

 

今回の夫の具合の悪さも、ある意味突然でした。

昨日までわりと調子が良かったのに、今日になったら急に起き上がれなくなっている、みたいな感じ。

病気の野郎はいつも突然悪さを仕掛けてきます。

 

大きな病気を抱えている家族がいる場合、毎日がギャンブルのようで、全く予定が定まりません。

こういうことが積み重なって、看病を理由に仕事を辞める人が出てくるんだろうなと思ったりしています。

夫のがん。その後。

このブログをずっとほったらかしにしていたことに、理由はありません。

あえて言うなら、書く気になれなかったというか、時間が無かったというべきか。

 

去年の夫の状態に比べたら、今はたいそう良くない。

途中、抗がん剤が変わった。

分子標的薬も使った。

そして主治医も変わった。

 

去年から今日までの流れを書こうと思えば書けるけど、

正直今は思い返したくない。

希望を持っていた時期を、希望が消えかけているように感じる時期に思い返すのは、

とても辛いことなんだってことはわかった。

今はあまり辛いことを自ら選択することを避けたいと思う。

 

主治医が変わったのは、今年の7月だった。

夫と相性が良い(と患者の私たちは勝手に思っていた)女性医師は、

遠い病院へ移っていった。

最後の診察の時に、彼女がほんの少しだけ声をつまらせたように感じたのだが、

その時はあまり深く考えなかった。

4年ほど勤務したこの病院への思い入れかなくらいにしか思っていなかった。

今はひょっとしたらその後の夫の流れ着く先がわかっていたのかもしれないと、ぼんやりと思い返す。

 

今度の新しい主治医は男性で、前の女性医師よりキャリアは上のようだ。

最初の1〜2ヶ月、コミュニケーションが取りずらいことは致し方ないことだった。

いきなり途中から担当することになった患者の全てを、その時点で理解することも難しいのはわかっていた。

でも3ヶ月以上経った今も、今の主治医のことを信頼できずにいる。

それは夫もそうであるが、私は特に不信が強い。

 

それは他人事であること。それが全てだ。

今の主治医の過去の経験を私たちは知らない。実績も知らない。

けれど彼は医師だ。

「過去の体験に沿わない」ことや「マニュアルにない症状」に対する判断が

ひょっとしたら彼の判断が正しいのかもしれないことも、本当なら汲みたい。

でも、それによって夫が痛い思いや辛い思いをする回数が増えることに

そろそろ私も、もちろん当の本人も限界に来ている。

 

元々発見時に遠隔転移があり、ステージⅣだった夫なので、

完治できる可能性が低いことは、頭の中で常に覚悟していたことである。

しかし、今の段階ではまだ「もう仕方ないのですね・・・」という気持ちになれないのである。

もう少し何かできるのではないか。

それは前向きな治療的にでもあり、緩和的治療でもあり。

とにかく主治医の彼から手段の全てを尽くそうという気概を感じないのである。

 

私たちはがん専門看護師の方の勧めもあり、セカンドオピニオンを受けることに決めた。

もう少し早く決断すべきだったのかもしれないが、夫が気乗りしなかったこともあって、強引に事を進めることはしなかった。

でも今になると、強引さも必要だったのかもしれないと後悔している。

 

きっとどんなにいろんなことに努めても、後悔することから逃れられない。

でもその後悔を少しでも小さくしたい。

それは自分の今後のためでもあり、夫の命の期限のためでもある。

こどもたちのためにもなることかもしれない。

 

今も夫の部屋からは傷みに耐えるうなり声が漏れ聞こえる。

今週何度病院へ行っただろう。

それでも担当医の外来の曜日でないときは、親切の度合いはいろいろあれど、様子見や対処療法になる。

担当医の判断が及ばない日の診察室は、医師がいるようでいないのと同等だった。

 

明後日、担当医の診察日だ。その時にあまり効き目がないように思える(血液検査でもそのように感じられる)抗がん剤を投与する。

夫は抗がん剤投与の後、波はあるものの痛みはあまり強くなくなる。

それも2週間が限界で、その後は痛みと怠さとの戦いである。

担当医の診察が月曜日ということもあり、ハッピーマンデーが時折やってくる羽目になり、その時はどうしても3週間治療が空いてしまう。

その時の3週目は本人も家族も地獄の1週間となるのだ。

わかっているのに、主治医は月曜日にしか外来がないから、3週間空くことになる。

そして主治医の彼は、その3週間目の夫の状態を信じていない。

それはマニュアルにないからであり、過去の受け持ち患者になかったことだから。

 

最近、夜中に病院へ車を飛ばすことも多くなってきた。

朝起きたら体調が悪すぎて仕事に行けないこともちょくちょくある。

そんな時、一番辛いのは夫本人だ。

だからこそ、私はなにも言えないし、耐えるしかない。

今後の不安や、今現在なにもできない不甲斐なさ、夫のうなり声を常に聞かされるストレス、やらねばならない日常のことや仕事ができないことへの苛立ち、それらのことを全て笑顔で飲み込まねばならない。

 

1年後の夫と私は、どうなっているのだろう。

いや、1ヶ月後だって、もう今はわからなくなっている。

たまたま、運良く。

ここのところ、主人の調子がすこぶる良い。

 

それは、本人の体感的なもの、外部から客観的に見たもの、そして医師の見立て、全てにおいてだ。

恵まれていることと思う。主人に選択された治療が、主人の身体に「たまたま」「運良く」ピッタリあっていたということだ。

この「たまたま」「運良く」に関しては、前回少し書いた。

nonbiring.hatenablog.com

これがずっと続くとは思えない。そんなに甘くないのが進行がんである。そんなことはわかっているのだが、とりあえず現時点のこの驚異的な彼の生命力を喜びたいと思う。

 

 

前回、私の持病である関節リウマチの話もした。

そこで、関節リウマチが寛解状態であることも書いた。

それは「たまたま」「運良く」薬が良く効いたからとも書いた。

それに間違いはない。しかし、こうなると、私の担当医の腕がさぞ良いのでは。となる。

そして、同じ病気を持つ方や、身近にいる方は「そのお医者さんを紹介して!」となる。

 

私は快く紹介する。それにためらいはない。

しかし必ずしも万人に名医である約束はできない。そのことも告げたうえで、紹介する。

 

私の担当医の薬の匙かげんは絶妙である。

しかしそれは、担当医が開業するずっと前の話だ。

この春、担当医は開業をした。その前は元々勤務していた大学病院を退職し、様々な個人病院で診察を続けながら、他の大学病院にも勤務を続けていた。私がこの医師から薬の判断、決定を受けたのは、元々勤務していた大学病院時代のことであり、かれこれ8年ほど前のことである。その後はその時に決定した薬を少しずつ減薬しており、3年前から経過観察が続いている。

 

人は変わらないようで、変わる。

私の担当医も常に流れている時のなかで、少しずつだが大きく変化している。

彼はこの8年の間に勤務先を転々としたこと以外にも、治療の対象を変えていた。テレビやラジオにもよく出るようになった。

もちろん元々診ていた関節リウマチは専門であることに変わりないが、最近は線維筋痛症という難病の名医にもなっている。専門とする病気の数が増えると言うことは、患者の数も増えるということだ。病院でも待ち時間も長くなり、そして診察時間も短くなっていく。

いや、真実はそんなに変化していない。私に関しては。診察時間も短くなってはいないし、親身になってくれている。

でも、それが全員にそうであるかとなると、ちょっと違うようで、病気を通して知り合った私より10歳ほど年上の彼女には、たいそう冷たいんだそうだ。彼女は「私の治療が上手くいかないから、匙投げているんじゃないかしら。」と言う。その言葉を真に受けていいのかどうかもわからない。少なくとも彼女はそう感じているという事実だけだ。

 

そういう言葉は、澱のように私の頭の中に深く沈んで積み重なっていく。

でも私の目の前にいる担当医は、そんなことは一切感じさせない。

そのギャップが「万人に名医であるとは言えない」という但し書きを付けさせる理由だ。

 

主人の大腸がん治療においても、名医が必ずしも良いとは限らないと感じることがあった。

主人の外来治療の担当医は女性の若い医師だ。

それは、入院中に主人が自分で決めた。

本当はその病院で一番のベテランを外来治療の担当に勧められていた。主人の手術を担当した若い男性医師は外来を持たないからだ。

主人はしばらく考えていたが、若い男性医師と一緒に手術をし、入院中の治療も複数担当してくれていた若い女性医師にお願いしたいと告げた。

その選択が正しいかどうかは、まだはっきりとはわからない。

しかし、最初に勧められたベテラン医師は今月末で退職となり病院を去るそうで、現時点で言えることは、「ベテラン」という言葉に釣られてその医師を選択しなくて良かったということだ。

 

それも「たまたま」であり「運良く」である。

私たちは結局、自分で選択しているようで、それでも自分ではどうにもならないものに動かされていると思ってしまうのである。

 

病気のイメージ

がんって告知されると、どうしても「死」を意識しますよね。

 

nonbiring.hatenablog.com

前に、がん患者=死、と連想させるのは良くないのではないかと書きました。

そう書いたけど、告知された本人はやっぱりショックだし、「私、何年生きられますか・・・?」みたいになるのはごくごく当たり前のことであると思う。

ただ周りの人が、死を意識した発言は控えた方が良いのではと思うだけでして。

 

どうしたって「イメージ」はつきまとう。

それは病気に限ったことではないが、ここでは病気に対するイメージの話をしたい。

 

私自身、関節リウマチという病気を持っている。

発症はもう15年ほど前になる。とにかく痛かった。でもなにより、先々関節が変形して、思うように動けなくなる可能性があるってことに絶望した。

でも、15年経った今、私は元気だ。

ハイヒールの靴だって好まないけど履けるし、マラソンだって興味はあんまりないけど、担当医曰くやってもいいらしい。ちょっと手首が曲がりにくいことはあるけど、あとは不自由なく暮らせている。

 

なぜか。

私は「たまたま」薬が効き、寛解状態に持っていくことができたからだ。

この「たまたま」は「運良く」とも言える。

神様に気に入られるほどの良いことをしたとか、医師に特別な治療を施してもらえるほどの袖の下を渡したわけでもない。

発症後に医師から処方された薬が私にはとても効いたのと、その頃ちょうどリウマチの新薬が承認ラッシュでいろいろな薬の選択ができたこと、私の身体が薬の副作用に耐えうる状態だったこと、医師の薬の匙かげんが絶妙だったこと。

この中に私自身が努力したことは、ひとつもない。あえて言えば、淡々と病院に通ったことくらいか。リウマチ患者さんの中には、怪しい民間療法にすがって、病院に来なくなる人も多くいるようで、私自身もたくさんのお誘いを受けた。が、私は淡々と病院に通い続けて、淡々と検査結果を聞き、淡々と処方された薬を飲み続けた。だから今の私がいると思っている。

おそらくがん患者さんの中にも、いろいろな民間療法からのお誘い、あるいは自分自身で積極的に民間療法を選ぶ場合もあるかもしれないが、その事についてはまた別の機会に。私は民間療法全てを否定しているわけじゃないということだけ、書いておきます。

 

その「たまたま」「運良く」寛解になることができたことを、私は一時期「自分が成し遂げたこと」のように思っていた。でもよくよく考えたら違うわけで、あの頃の自分に何か伝えることができるとしたら、「悲劇のヒロインになるなよ。」ってことかな。

あと、「周りの方に感謝しようね。」かな。

ま、でも確かに辛かったからね。病気だった自分をそうやって俯瞰で捉えることができるようになったのも、今自分が元気だからに他ならないわけだし。

 

ちょうどリウマチになって4年目の頃。

私のリウマチは急性期を終え、薬もボチボチ効き始め、わりと普通に動いて生活できるようになっていた。辛いのは買い物。荷物を運ぶのはリウマチ患者にとって、けっこうキツイ労働です。それでもなんとかやれるようにはなっていた。

上の子が小学生になった頃でもあって、クラス役員を引き受けていた。病気のこともあって、専業主婦だった私に白羽の矢が立つのは当たり前っちゃ、当たり前。

でも、通院で役員の集まりに行けないなんてこともあるわけで、同じ役員仲間には私がリウマチ持ちだってことは伝えた。隠したいことでもなかったし、特に深く考えることなく。

そしたらその役員の中の一人が、

「偉いわね〜。病気持っていても役員引き受けてさ。〇〇さんも確かリウマチだって聞いたけど、あの人、何にもやらないのよね。リウマチだからやれませんって言っていたけど、あれ、ただ単にやりたくないだけじゃない?」

ってなことを言ったんですね。それに周りも同調して「確かにそうだね〜。」みたいな空気になっちゃって、私はちょっと辛くなってしまった。

 

まさか私のリウマチと他の人のリウマチを比較されるとは思いもしなかったので、一応個人個人でリウマチの具合も治療効果も違うんだって話はした。したけど、「リウマチでもやれる人はいるわけだから、やろうと思えばできるはず」的なイメージを彼女たちの頭に植え付けてしまったことは確かだ。

本当に正しく伝えるって難しいと思う。

 

この時に彼女たちは、リウマチという病気を、目の前にいる患者代表の私という存在からイメージした。多分無意識のうちに。

リウマチ患者って実は日本に80万人はいると聞いているが、皆さんの周りにゴロゴロ転がってはいないだろうし、あんまりテレビでも取り上げられないから、イメージが固まってない。だからあの時は私がそのイメージ代表になってしまった。

でもたいていは、リウマチと聞けば、手の変形や杖をついて歩くおばあちゃんの姿を想像し、温泉の効能に大抵書かれていて、入れば治るというイメージだろう。

実際は、発症は30〜40代が多いし、温泉では治らない。

 

がんも死に直結するイメージからなかなか脱却できない。最期は痛みに耐えながら息を引き取るイメージもまだ根強い。抗ガン剤を使うと髪が抜けるイメージもあるし、吐き気のイメージもある。

これも実際にはすぐには死なないし、最近は上手く付き合いながら普通に暮らしている人もいる。緩和ケアも充実してきており、最期に近い人だけのものじゃなくなっている。髪が抜けない抗ガン剤もあるし、吐き気がないパターンもある。

 

結局はひとりひとり、個人で全く違うし、病気のイメージで括ってしまわないようにと思う。イメージばかりは自身の努力ではどうにも変えられないということを頭の片隅に置いてもらえたら。

勝手なイメージで決めつけられて辛い思いをする人が減るといいなと思う。

 

小林麻央さんの乳がん報道で思うこと

きっとみんな驚いたし悲しんだし、祈ったと思う。

 

でも、結局は「他人事」なんですよ。

一生懸命、相手の気持ちを想像力駆使して思いやっても、わからないものはわからない。

例え、海老蔵さんがあの記者会見でステージをはっきり明言していたとしても、彼女の乳がんの進行具合や状態も、勝手な想像でしかない。

 

がんとなると皆、気になるのは「部位」「ステージ」「余命」のようで、その得られた情報で予想を立てる。

ステージ1と聞くと、早くわかって良かったねえとなり、ほぼ完治間違いなしと判断する。ステージ4と聞くと、それはたいへんだ、何でもっと早くわからなかったの、検診受けてなかったの?そして、転移は?余命は?となる。

部位も大腸と聞くと、手術して取っちゃえば大丈夫となんとなく思えるけど、乳だと手術して取っちゃえばいいと言う話でもないとなる。おっぱいなくなるのは女性として辛いよね、と。

 

それ全て、頭の中でこさえた「物語」だってことに気がつく人は、どれくらいいるのだろう。

その「物語」は当たっているかもしれない。いや、きっと当たっていると決めている。その頭の中で作られた物語はフィクションではなく、ノンフィクション。

だって、その物語は、今迄にどこかで見聞きした知識だから。中には身内や自分自身の体験かもしれない。

 

それでも。そうであっても。

想像でしかないんですよ。

物語なんですよ。

 

彼女が何を考え、どう暮らし、がんにどう向かい合っているか、私達は全く知らない。

テレビで報道されている彼女のことも、それが正しかったとして、彼女のほんの一部分でしかない。

 

だから私は、今現在がん患者のそばにいて、一緒に悲しんだり、喜んだり、泣いたり、ホッとしたりしている立場ではあるけど、小林麻央さんの乳がんについては、何も語らない。

このブログをたくさんの人が読んでいるわけじゃないし、寧ろ、何の影響力もない一般人だけど、でも、やっぱりやめておこうと思う。

 

きっと、マスコミの報道している側の人の中にも、どこまで報道すべきか悩みながら…って人がいることを信じている。

 

がんであることを、周囲に伝えるかどうか 入院中編

記事タイトルの、このことに悩む場面が度々ある。

主人ががんであると判明した頃はちょうど年末で、クリスマスだの正月だの、世間は浮かれモードで忙しなかったし、2人の子どもが受験生だったこともあり、友人も知人も親戚も、積極的に連絡をしてくるタイミングではなかった事は救いだった。

それでも、他人と全く関わらずに生活することは難しく、それなりに説明しなくてはならない場面に出くわす。主人本人は年末とはいえ、仕事を急遽休まねばならなかったので、特にどこまでの人に病気であることを伝えるか、悩んだようだ。あと、病名を伝えた人に、どの範囲まで病気の事を伝えてもらうか、黙ってもらうかについても悩んでいた。結果的に、主人は入院中にはかなり少人数にしか本当の病名は告げていない。

当の本人は入院のベッドで点滴につながれており、携帯の使用には制限があった。入院生活が長引くことが分かってからはPCを持ち込んだが、使用できる場所が限られていたため、仕事で絶対に連絡しなくてはならない時以外は使っていなかった。本人と直接話をするためには病院に見舞いに来る必要があるが、年末年始を挟んだことと、病院がわりと不便な立地だったこと、入院自体を限定的にしか話していなかったため、片手で足りる人数しか見舞いはなかった。本人は結構な期間食事禁止だったし、最初と術後は痛みもあったため、結構弱っていたし、なんとなく状況を察するしかない主人の関係者においては、本人にガツガツと病状や病名を掘り下げて聞いてくることはほとんどなかった。

本人の周りはそんな感じだったが(ひょっとしたら私に言わないだけで、もっと複雑に悩んだこともあったかもしれないが) 私の周りはそうはいかなかった。

入院しているわけでも、弱っているわけでもなく、普段通りの暮らしを送っている…ようにするしかなかった私には、当たり前だが直接会う機会がある人もいた。実は主人と私は同じチームで取り組んでいる仕事があり、共通の知り合いや仕事関係者がそこそこいる。あと、子どもを通しての知人や友人、所謂ママ友もいて、そんな人はわりと近所に住んでいるため、家庭内の事も敏感に察知してくる。受験真っ盛りの時期だったので、やたらめったら踏み込んではこないものの、中にはそうもいかない人もいた。主人の現状を話さないわけにもいかず、どの程度まで話をするかは私なりに悩んだ。

詳しい病名は話さずとも、入院の事実だけで皆一様に驚くし、現在の主人の状態から入院期間、手術の有無までは質問される。大抵はここまでで止まる。しかし、中にはその先に質問が及ぶ人もいて、そういう人には病名まで話さねばならなくなる場合もあり、そしてそういう人はだいたい近しい人をがんで亡くしているというオプション付きだ。

当の本人を目の前にして、がんで亡くなった人の話ができる人はあまりいないと思うが、私は当の本人ではないため、全てを受け止め、血肉にすると信じているのか、それとも支える側の人間には励みになると確信しているのか、死んだ人の話をされる。
もちろん、悪気がないのも分かるし、心配しつもらってありがたいという気持ちもある。
たが、そういう人の話の行き着く先には「死」がある。「生」の話ではない。
正直、「生」の話は、アドバイスという、これまたどんなリアクションをすればいいのかわからない難易度の高い話が付き物なので、それはそれで迷惑なことも多いのだが、「死」が待つ話には希望が一切ない。途中がどんなに穏やかだったとか苦しまなかったとか、余命が延びたとかであってもだ。結局「死」なのだ。

なぜ、打ちのめされている人に、さらに悲しみの上塗りをしてくるのか。
なぜ、ただでさえ疲れ果てているところに、ありがたくもない、寧ろ傷つき惑わされるだけの話に、お礼を言わなくてはならないような状況を作るのか。
この頃はそういう風にしか思えなかった。
私の周りの人にがんになった人が出ても、私は絶対にそんな話はしないと心に誓ったのもこの時期だ。

多分、がん=死 の図式が、皆の頭に刷り込まれているため、どうしても快方に向かう図より、抗ガン剤の副作用で髪が抜け、痩せていき、最後は痛みに耐えかねて死んでいくという姿しか想像できないのだろう。
家族はそれを支える立場にあり、どの方向に転んでも気丈に受け止めなくてはならないのだから、覚悟を決めなきゃね。辛いのは本人なんだから、あなたは今はいかなることも犠牲にして尽くさなきゃね。そんな臭いがプンプンする話になってしまうのは、そういうことなんだろう。がんなんだから、残り短い人生を充実したものにしてあげてね。みたいな。私はあなたが今置かれている状況の先輩だよ、と。あなたの気持ち、理解できるよ、と。

正直、余計なお世話である。
がんは部位でもステージでも、さらに本人の年齢や体力や薬との相性等、本当に複合的な要素で、ひとりひとり予後の状態は変わる。ステージⅣから長生きしている人もいる。この頃はそういう希望が支えだった。そんなささやかな希望を踏みにじられた思いしか残らない状況で、周囲へのがん報告が億劫にならないはずもなく、余程の事がない限り、主人の病名は話さないようにしようと決めたのも、この入院中だったと記憶している。

大腸がんステージⅣの主人のことと家族のこと。

夫が昨年末、がんと診断された。

青天の霹靂とはまさにこのことだと思ったわけだが、半年ほど経過して、気持ちも暮らしも落ち着いてきている。

夫が「がんです」と診断されても、粛々と暮らしていくしかないわけで、仕事もあれば、食事の支度も、子どものことも、近所づきあいだって普段通りにこなすしかない。

しかし、この「無理矢理の普段通り」が落ち着いた精神状態へ早めに引き戻す手伝いをしてくれたと、今振り返ると思う。

 

夫はマスコミ関係の職に就いている。

がんと診断されるまでは、毎日遅くまで働いたり、付き合いがあったりで、多忙を極めていた。お酒も甘いものも脂っこいものも大好きなので、週末は夫婦で晩酌していた。

かなり体重も増えてきており、日頃から「痩せた方が良い」と言っていたが、意に介することはなかった。「太く短く生きる」と豪語していたあの頃、もう少し節制していたら、今が違ったのだろうか。

 

夫のがんは、大腸がんだ。

ステージはⅣ。遠隔転移も有りという、最悪な状態で夫のがんは発見された。

クリスマスや年の瀬でバタバタし始める12月19日深夜に、夫はお腹の激痛で病院に搬送された。いや、正確には私が病院へ連れて行ったわけだが、その辺りのことについては、今後書くことにする。

腸閉塞を起こしており、その「閉塞」が「何で」起きているのか、そこが問題になり、検査となった。診断確定にも紆余曲折があったわけだが、これも今後詳しく書く機会があるだろう。

ステージⅣだと手術してもあまり意味がないと医師が判断する場合もあると思うが、主人の場合、がんが腸をふさいでおり、小指の外周程度の穴しか通っていない状況だったため、切除しないと生きていけない状態だった。

開腹手術となり、太っていた主人は、予定4時間の手術が8時間もかかってしまう。開いたところがくっつくのにも時間がかかり、さらに膿みやすいため、普通の人にはやらない処置も行った。やっぱり肥満にはいろんなリスクがつきまとうということを痛感したわけで、今太っている方には、リスク回避のためにもダイエットをオススメしたい。

 

入院期間は21日間に及び、年をまたいだため、クリスマスも大晦日も正月も、主人は病院のベッドで、食べ物は一切食べられない状態で迎えた。

こんな状況で私も子どもたちも、美味しいものを食べる気になれず、良いように言えば、お金を使わずに済んだのだが、クリスマスらしさや正月らしさはほぼ感じられることなく過ごした。その頃は「いつか、こんな時もあったなあなんて懐かしく思い起こす日がやってくるのだろうか・・・」なんて思っていたわけだが、半年しか経たない今、既にあの頃のことをぼんやりと懐かしく思い起こすことがある。これもがんを患う本人ではないから、結局は他人事でしかないのか、それとも、人間の脳はそうポジティブにできているのか、それはよくわからない。

 

がん患者を支えるー。

家族としてはとにかく受け入れていくしかなく、その時その時の状況を飲み込むだけで精一杯の中、甲斐甲斐しく支えるのが当たり前であるかのように周りからは扱われる。もちろん支えていくし、支えたい。しかし、やるしかないという気持ちが少なからずある。普段の生活が出来るようになって欲しいというのもあるが、後々悔やみたくないという思いも強い。結局自分の為じゃないかと言われそうだが、確かにそれはあるし、だからこそいろんなことにトライしたり決断したり、いろいろと諦めたりもできる。私は私なりに追われている。疲弊することも多い。


私たちが取り組んでいることは、いろいろ調べ、主人と話し合い、悩んだ挙句、たいへんだろうと想像がつく中で決断してきたことではあるが、それを声高に「がんと闘う主人のために行っている」こととして「がんと診断された方のご家族に勧めたい!」みたいに、このブログに書くつもりは毛頭ない。そんなブログは山のように存在しており、今更私がやることでもない。そして、自己満足な承認欲求ブログにもしたくない。そもそも主人はがんと闘ってない。いや、それは違うかな。正確には「主人の身体の正常な細胞たちが闘っている」という感じか。とにかく精神的にファイティングポーズは取ってないはずだ。


このブログを読んで「ああ、こんなパターンもあるのか」「こんなんでいいのかよ」「どこもたいして変わらないなあ」といった感想を持ってもらえたら幸いである。